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昭和五十三年十一月十四日 朝の御理解


御神訓 一、不浄のある時は先に断りおいて、願いあることを頼めよ。


不浄のある時は、先に断りおいて願いあることを頼め、とありますが。私は、不浄と云うものはないと思います。普通一般に、黒不浄とか、赤不浄とかと云う様なことが、実は不浄ではない様に。私共が不浄と思っておることは、実は不浄ではないんだ。例えば、お便所の中にも、天地の親神様の働きと云うものは。いや、その中にあるのですからね。便所に行ってから、手も洗はんで良かと云う意味ではないですよ。もう金光教の信心で云うたらね。もう本当に、不浄と云うのはない。だから先に断りおいて、願いあることを頼めと。
私共が不浄と、例えば感じます。ああこんな事と、こう心を汚します。ですから、汚したままで行くと、やはり不浄は不浄です。それが、お道の信心で云う、不浄とは成就しないことを、不浄と云う。だから、成就しない時には、やっぱり自分の真が欠けたと思ってと云うふうに。これは四神さまの御教えですかね。だからそのところをです。それは信心のそれぞれの過程なんですから、やっぱり不浄を感じたらです。こんな穢い格好で済みませんとか。例えば、例え畑で肥を掛けておってもと仰るから、それがもし不浄であるとするなら、肥を掛け掛け、お願いは出来ん事になります、ね。ですからね、大体は、お道の信心で云うならば不浄と云うことはない。それは結局、云うならば迷信。迷信と云うて、普通で云う迷信ではない。心にまだ迷いがあるから、それを不浄と感ずるだけ。
それでもやっぱり、私共はさっぱりして、気持ちが良いようにするから、お風呂も頂く、お水も頂く。なら汚れたら、手も洗う、体も洗うと云うことになるのです。すると心がスキッとなります。そのスキッとするその心が、おかげを頂く心なのです。
昨日、十三日会がああして、月々参会する人が多くなって来た。もう新館ホールいっぱいでしたね。本当にあれだけ沢山な人が、それぞれに、十三日会に何か一言お話をさせて貰おう、自分に指されたらこんなお話をしょうと、そのお話の材料をいっぱい持っているのです。それに信者方の場合は、一時間あまり後一時間が、先生方と云うことになりますから。もう誰にも、司会する者が困るぐらいだろうと、こう思うんです。しかも、自身たっぷりの方達が、ずらり並んでおられますから、その中から、誰彼と云って行くのですから。今日、発表しようと思いよったたけど、とうとう発表できじゃったと。
私は昨日、それをしきりと思ったんですけど。もうとにかく、金光様のご信心は、話を聞いて助かる道と云われるからね、自分の心の中に信心に感じる、おかげを感じる時には、その信心がもうお話になっとかなければ、駄目だと思うな。そのおかげ話が、誰にでも分かるおかげ話として、要領よくまとめられとかねば駄目だと思うな。それがまとめられとると、誰にでも伝えられるんです。昨夜も、もう遅うにでしたけど、高鍋の古屋先生から、電話が掛かってきた。もう遅かったですから、末永先生が聞いていたんです。それが、どう云う事かと云うと、私の知った人が、夫婦喧嘩をしてから、もう別れるの、別れんのと云うて大騒動しとります。だから、今から示現活動にやらせて頂きますから、どうぞよろしくお願いします。と云う電話が掛かって来た。素晴らしいですね。
夫婦喧嘩がありよると云う事だから、その仲裁に行きます。と云うのでなくてね。示現活動に行く、お導きに行くと云うのですよ。もう遅うから、内容を持っとらねば出来るこっちではないです。また確信をもっとらねば出来ることぢゃ無いです。
昨日、十三日会で終わりましてからでした。久留米の佐田さんが、ここへ出て来てから。もう今日と云う今日は、充分お話をする材料をいっぱい持っておったと、こう云われる。いつ指されても良い、手を上げても話したい様な、物があったことを、私は知っています、ね。ところが、自分には指されなかった。その時にです。先日、昨日か一昨日か、Z『木鶏』と頂いておられた。木鶏とは、木の鶏と云う事。これは、木鶏と云う何か言葉がありますよね、たしか支那か何かの言葉に。木の鶏、女賢うして牛売り損なう、とかね。女賢いと云う事を、まあ云うならば、良くは言いませんですね。支那、日本でもそうです。木鶏になれと云うのです。そしてね、昨日の共励か頂を終わり、研修を終わった後に、ああ木鶏とはこのことだと、分かったとこう云うのです。内容に、いっぱい持っておる。云うなら、自分の信心を、どんなにも、自由自在に説けれる程しの信心を感じておる。それが発表できんから、何か心淋しい思いもするけれども、それをよく考えておったら、ははあこれが木鶏だなと思わせててたら、話をしなかったことが有難うして、有難うしてと、感動的なお届けが、ここにございました。もう佐田さん、それで行く以外ないですよと。
けれども自分の周囲に、不幸な人が、そこにおる。夫婦喧嘩がありよるげなと聞いた時に、やっぱり、示現活動に行かずにおれないと云うのとは別な様です。だから私は、今度の十三日会に皆さんに云おうと、その事から思っていたんですけど。皆が、一人一人にです。もうそれは会に発表の出来なかった人達は、皆、お届けして行くんですよ。まあこんな話をしょうと思っとったと云うわけぢゃないですけど、この人に発表させたら、こんな話をするのだっただろうと思う様なお届けをされる。夕べは特に多かったです。
ですから自分の心の中に信心を練り、それが話になり、自分の頂いているおかげと云うものを、お話にまとめておく。自分の心の中にまとめておく、自分の心の中で話してみる。これが素晴らしいと思ったんです。だからあれだけ沢山の人が集まって、皆が発表したいものを持っておるだろうけれども。発表が出来なかった時にはかえって、今日は木鶏のおかげを頂いたと。自分の心の中に、有り難く頂くと云うことがです、大事だと云うふうに思うんです。今日は俺には、話をさせぢゃった。いや、どうでんこうでん話さにゃおられん人もあるわけです。ところが、それが指されないと、やっぱり淋しい思いを。これは、私共、過去においてそう云う感じの時代がございました。そして、お話をした、お話をするとその後が、淋しゅうなる時代がございました。
ですからそう云う時、一人一人がです、やっぱり何時でもお話が出来る、おかげ話の一ちょ二つぐらい持っとかねばいけないし。最近感じるところの信心を、成程どんなにでも説けるような、信心と云うものが自分の心の中に練られとかにゃ駄目です。だから御理解も、本気になって頂かれるわけです。
そして帰ったら、お食事の時でも、一服する時でも、信心話が出てくるわけなんです。指されなくても、返っておかげを頂く。為に自分の心の中に、何時でも話が出来るような話を心の中にまとめておくと云うことはもう、信心の研修です。
今日の御理解で云うと、例えば、不浄と云うのは大体無いんだとね。けれども人間汚れておれば汚れておる、心の中に。例えばお葬式などに参りますと、家に入らせんですね。塩を撒いてからしか入らせんと云うお家がありますよ。あれは、やっぱり自分にも不浄を感じ、人にも不浄を感じさせるからです。そう云う心がある間はね。だから先に断りおいてとこう仰る。だから、それを不浄と感じ、横着ではなくてですよ、
昨日、末永先生が司会を致しとりました。ご承知のように。築豊支部の御大祭があのように、昨日皆さんお礼にみえて、お届けがあっとりましたが、九十九名あったそうですよ、お参りが、ね。本当にやはり築豊地区の御ヒレイだと思います。しかもそのお湿りの中に、瑞々しいお祭りが仕えられた。それこそ、水引きと仰せられるが、本当にあのお祭りを境に、神様が水を引いて下さるであろうと、愈水も漏らさぬ受けものを作らにゃならんと云う思いを、お互いに、新たにしたわけでございますけどね。私が後にお説教の時に、ね。今日のお湿りの、この事に心から神様にお礼を申させて頂いて、そしてあの水引き草のお知らせをを頂いたと云う事を、昨日末永先生が取り上げて云ってました。
もう本当に、このお湿りの中に、そのお湿りが、しみじみ有り難いと云うて、お礼を親先生が申された時に、神が参ったと言いなさったぢゃろうと云う表現をしていましたね。正しくそうなんです。今日は、私の不徳のために、お湿りがあって、皆をしるしい思いをさせます。と云うたらもうお詫びになるわけです。ほらお前が、日頃精進しとらんからそんな事だと、神様が云いなさらにゃんごとなっとるです。だからそれを知っておって、不浄であることを知っておってご無礼であることが分かっておって、ただ言葉だけに有難うございますは、出て来るものぢゃないです。
私は、安部野の先生の真似したわけぢゃなかったけれども、心からそう感じたんです。安部野の先生なんかは、あちらのご主人、教会長先生の何十年かの式年祭の時、土砂降りだったそうです。だからとうとう墓前祭も出来なかった。それで、向きを変えて墓前の方を向いて、そのお広前から、墓前祭をされたと云う事です。
そして、皆さんに、ご挨拶される時に、云っておられることは。今日はおかげ頂いて、皆の者が、足を汚さんで済みました。と云ってお礼を言われたと云うことです。土砂降りですから、濡れもする、足も汚す。もうこれにはね、神様の方がね、それこそ参ったと言いなさる様な感じです。ですから、如何に安部野の先生がです。ある意味合いにおいては、自分の信心を、自分でご覧になって。自分で出来るだけの、水も洩らさん信心をなさっておってからの事だから、お礼が云へれるのです。こりゃ私の場合も、そうだったとこう思うんです。神様が参ったと仰る。それをね、私が言っておる意味がよく分からなければいけませんよ。神様より上になったと云う意味ぢゃ無いのですから。神様からお礼を言われるとか、神様が参ったと言いなさるとか、と云うのはそう云う意味ぢゃないから。そのへんのところをよく頂き違いはない様にせなければいけませんけれどもです。
私は、末永先生が司会をする前に話しておりますその事を、やっぱそうだな、素晴らしい表現だなと。だからいつも神様が参ったと云いなさる様なね心の使い方を、もう神様がまいった云うて喜んでござると云う感じなんです、ね。
不浄を不浄と感じてない。ね。大体お道の信心には、不浄と云うのはないんだ、ね。けれども自分の心に、不浄を感ずる時には、感じたままではそのままがご無礼。だから不浄のある時には先に断りおいて願いあることを頼めと教えておられる。
だからむしろ、佐田さんじゃないけれども、今日は指されたら、この話もしょう、あの話もしょうと思って一杯持っておられた。しかも、垢抜けしたお話を昨日は、持っておられた。指されなかったから、何とはなしに淋しかったけれども。先日頂いておったも木鶏のことを思ったら、ハアーこれが黙っ治めることだ。これが黙って受けて、あの黙っておれれると云うことが、そう云う有り難いものを心いっぱい持ちながらね。それを云わんで済むと云うことは、こんなに素晴らしい事は<ない>。不浄に終わったことに対して対して、お礼が言えれると云うのは、そう云うことぢゃないでしょうか。
皆さん成就しない事、不成の時にです。不成に終わった時にです。お礼が言えれるような心の状態を作っておきたしですね。それこそ神様が、参ったと云いなさるような感じです。それでいてです、それこそ、古屋先生ぢゃないけれども、知った人が夫婦喧嘩して、もう別れる別れんのと云うて騒動しとると云う話を聞かれて、只今から示現活動にやらせて頂きすから、どうぞ宜しくと云う。この時、黙って治めりゃいかん、ただ祈るだけ。これではあまりもの事。とにかく、行かずにはおれない、話さずにはおかれん、夫婦と云うものは、そんなに簡単に着いたり、離れたりするようなものぢゃないと云うとこを、充分御自身も体験の上から、知っておられる。だからそのことを聞いてもろうて、そして御信心を頂いて貰おうと云うような、そう云う心が、またその向こうにはいると云うことなんです、ね。
不浄に終わる(不成)時にお礼が言える。普通から云うなら、済みませんと云わねばならない時に、普通なら段々信心を進めて参りますと、もうむしろお礼を申し上げねばならんことだと気付かせて頂く信心。と云うて不浄を感じた時には、先に断りおいて願いあることを頼めと、ね。
これはお道の信心を段々に身に付けて行く。そしてまあ云うならばね、信心を進めていく秘訣のようなものぢゃないでしょうか。
只、お詫びお詫びと云うたら、こりゃあの妙なもんですよ。もうあれが今度来たらやかましゅう云うちゃろうと思うとっちゃですね。そりがあなたと、云うてくるなら云われんです。
秋永先生が、そう云う生き方ですね。云われん、そして話を聞きよると成程そげなこっぢゃったのと云わにゃごたる感じです。だからこちらがどうか云おうごたる時に、済みませんと言うなら、もうあんたばっかりはと、どうか云わにゃんごたる気がするでしょうが。そう云う一つの条理と云うものがね、天地との間にも、やっぱりあると云うこと。だからそりゃあなたと言えれる間柄と云うものを日頃作っとかねばいけない、と云うことなのですよね。どうぞ。